温泉旅館物語

入浴中の美女
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プロフィール

このページを開いて下さってありがとうございます。この物語集を書いている「湯の街ネヲン」( 美馬 勝年)です。時々「オレ」といって登場します。よろしく!

湯の街ネヲンが温泉旅館で働き始めた1968年(昭和43年)当時の伊豆熱川温泉は、まさしく、昭和20年代に大ヒットした近江俊郎の湯の町エレジーのイメージどおりの、湯の香ただよう風情豊かな温泉場でした。気候温暖、風光明媚、熱川バナナワニ園の異国ムードと相まって、新婚旅行のメッカにふさわしい観光地でした。

が、しばらくして、この静かな温泉場は一変しました。

高度成長期の景気の波が、少し遅れて伊豆半島にも、観光バスにお客さんをいっぱい詰め込んでやってきたのだ。春と秋の観光シーズンになると、ここ熱川温泉も活況を呈した。温泉街の中心、熱川橋からはあふれかえったお客さんが濁川へ転げ落ちそうであった。人ごみに押されポン引きのお兄さんたちも身動きが取れなかった。ミニミニの歌舞伎町であった。湯の街ネヲンとは、当時のにぎやかで怪しげな雰囲気をもつた温泉場をイメージして名付けました。

幼少期

湯の街ネヲンが生まれ育ったのは、埼玉県の北のはずれのなにもない農村であった。終戦直後の貧しい時代であった。村の北側の視界のはてには、JR高崎線の茶色い線路ごしに広く緩やかな裾野の高原台地をなしている赤城山が空と大地をわけていた。冬の寒い日には、国定忠治が刀をぶら下げて、大勢の子分たちと山から下りてきそうな気配があった。

春まだ浅い赤城山の遠望と桑畑
春まだ浅い赤城山の遠望と桑畑

この村の一帯は、水の便が悪かったので、わずかな田んぼ以外はすべてが桑畑だった。コメがとれない農家は貧しかった。なにしろ、冷房は風通しのいい木陰で、暖房はかまどのまわりと囲炉裏だけであった。

貧しくても子供たちは元気であった。

冬はケヤキの梢をピュウーピュウーと泣かせながら容赦なく吹きおろす空っ風にさらされながらも、あかぎれとたたかい鼻水をすすりながら、ただ何もない大地をかけずりまわって遊んだ。春がくると、村のようすは一変する。空の果てまでの視界100%の世界がまったくのゼロになる。村じゅうが大人の背丈よりも高くなった桑の枝に覆われ、まるで、海中生活をしているみたいになった。梅雨時になると赤黒く熟した桑の実にありつけた。夏にはさらに力強く成長した桑の葉を、ザワザワと騒がしくかき分けながら遊びほうけた。

が、桑の葉が生い茂る時期になると遊びはしばしば中断された。人手を要するカイコの世話をするための助っ人として親にかりだされたからだ。我が村は、お米がとれない貧しい村だったが、一大養蚕地でもあった。養蚕発祥の地の中国では桑の木は聖なる木であった。村人たちはそんな桑の木に囲まれて、創意工夫して生き生きと働いていた。

運命のいたずら…。

湯の街ネヲンが小学校を卒業するころ運命がいたずらをした。三男のオレは、東京の縁者のもとへ養子縁組が決まったのである。環境が一変した。当時の田舎の子は、高校へ進学する子はわずかで中学を卒業すると農家を継ぐか丁稚奉公に出るのが当たり前であった。そんな時代になんとオレは大学にも入った。

このとき、ノー天気なオレは漠然と思った。オレの人生には目には見ないが素晴らしいレールが敷かれているのだと…。そんなわけで、せっかく大学にまで進学させてもらったのに、ダラダラとした学生時代を送った。湯の街ネヲンの無気力さとは逆に、畠山みどりがやればできるというかのように「恋は神代の昔から」を歌い、都はるみの元気で力強い「あんこ椿は恋の花」が、にぎやかでさわがしい商店街のスピーカーから流れていた。

当然、大学は卒業したけれど無為無策のオレを採用してくれる会社は無かった。いわば、就活の落伍者となった。そんな湯の街ネヲンが、ひきこもりにも、ニートにもならなかったのは、貧乏の厳しさを身体が知っていたからだ。そして、親に庇護されて生きられる最後の最後に知ったことがある。努力しないと結果は出ないということである!

日本初、大学卒の二等兵!

社会人の入り口でストップをかけられて湯の街ネヲンは、これからの人生…、なんていう大げさ思考力はもちあわせてなかった。つらつらと考えた結果、社会の底辺で生きざるを得ない以上は、体力が必須だという結論になった。

そこでオレは、ともかく衣食住完備で体力の増強が期待できるという単純な発想で陸上自衛隊にもぐりこんだ。そこで後に知らされたことがある。お前は四大卒の初めての二等兵だと…。これが名誉なことなのか恥ずかしいことなのかは、湯の街ネヲンの思考の範疇外のことであった。いい性格である。

湯の街ネヲン、いわば逃避先であったこの隊員時代に、将来の糧となる宝物をたくさん手に入れた。ここにもオレには幸運のレールが敷かれていた。

まず一つ目の宝物は、
6時起床ー朝めしー8時始業ー昼めし・当然の昼休みー5時終業ー夕食・入浴ー10時就寝という規則正しい生活と、隊員としての訓練を通して、学生時代の不摂生な生活でなまってしまった肉体のオーバーホールが出来たことである。頑丈で健康は、凡人の最大の武器である。

そして二つ目は、
新人教育訓練終了後、無線通信隊に配属されたことだ。これ、ト、ト、ト、ツーツーという、雨垂れの音のようなモールス信号と格闘する羽目とはなったが、かって経験のない異次元の言語で遠距離と交信をした体験が、おおいに未知の世界を広げてくれたし機器の操作にも慣れた。ちなみに、ト、ト、ト、ツーツーというのは、数字の「3」で、オレの脳ミソには、みつきゆーこー(三月有効)とインプットされている。

さらにおまけがついた。
給料をもらいながらの教習で、大型の自動車運転免許証までくれた。危険物取扱主任者の資格もとれた。まさに自衛隊様々であった。

新世界へ…。

自衛隊を3年で除隊すると、またしても湯の街ネヲンは新世界へと踏みいった。伊豆熱川の温泉旅館だ。時代は昭和40年代のはじめである。

昭和40年代の熱川温泉の伊豆急熱川駅と海岸
昭和40年代中頃の伊豆熱川温泉街と、
みかん園より伊豆熱川駅と温泉の湯煙と伊豆大島を望む。

旅館をはじめとして、今や観光産業はごく普通の業種・業界であるが、当時は世間から白い目で見られていた。そして、職場環境は今でいうところのブラック企業であった。

温泉旅館がブラック企業?
当時の旅館業の劣悪な労働条件を証明するかのように、地元の旅館従業員の間では「鬼の○○、地獄の○○○、情け知らずの○○館」(○○には旅館名が入る)という哀歌があった。

さてさて「水が合う」とは理屈外のことである。湯の街ネヲンは勤務体制の見本のような自衛隊生活よりも、なぜか、フトンのなか以外は仕事場、休日はほぼ無しという旅館勤めに、精神的な自由と肉体的な開放感を得ていた。これって説明のしようがない。

湯の街ネヲンに、またもや幸運の女神がほほ笑む。旅館勤めを始めた時期とほぼ同じくして、温泉旅館業界にも高度成長の波が押し寄せてきたのである。そのすさまじさは、初任給の1万5千円が、15年後の退職時には、なんとなんと、30倍以上にもなっていた。

旅館勤めは、文字通り雲霞(うんか)のごとく押し寄せたお客さんと、あこがれの都会へと地域を離れた若者たち、すなわち、極端な人手不足とのはざまで翻弄され、もがき苦しんだ15年でもあった。が、楽しいことも数えきれないほどあった。

新・新世界へ…。

湯の街ネヲンは、40歳を目前にして起業した。確固たる計画と明確な目標があったわけではない。このときも目には見えないレールが、自動的に行く先を切り替えてくれたようである。あえて、転職の動機といえば、ホテル アタガワの社長父子のあいだで、年齢的な事由で社長交代の時期がきたからだ。「坂の上の雲」などの歴史小説を愛読していたオレは、旧主が引退するときは、自分も退くべきだと漠然と心していたからだ。

そんな折に、仕事で知り合った友人が、業界用語で「総案」という全国ホテル旅館の総合案内所の開設をすすめてくれた。業種的は旅館業の延長線上にあったので、いとも簡単に飛び乗ったが、苦労がなかったわけではない。サラリーマンと経営者が、まったく別の世界の生き物だということを理解するのに時間がかかった。植木等の「サラリーマンは気楽な稼業ときたもんだ」の本当の意味をこのとき知った。

総案の実務

総案とは、あふれかえる団体客で、旅館と旅行業者が目の前のお客さんの対処だけで精一杯という時代に生まれた新しい職種で、いわば、旅館と旅行業者を結び付ける便利屋です。お客さんの目には触れることのない観光業界の裏方の仕事である。

総案の具体的な仕事はアナログで、代理店契約をした温泉旅館のパンフレットもって、営業エリア内の旅行会社を片っ端から回り歩いて送客の依頼をすることです。総案はその送客量にあわせて収入が増減するので販売には熱が入った。総案の営業エリアは、おおむね都道府県単位であった。

なんの商売でも同じであるが、旅館が総案に送客の委託をしただけでは安泰ではない。そこで旅館は、販売力アップのために現地スタッフを営業の応援として総案に派遣した。派遣といっても長期ではなく、旅館が暇になるウイークデーの2~3日間である。

総案が、この現地スタッフとそろってセールス活動することを、業界用語で「同行営業」という。内緒の話しであるが、旅館の人たちにとっては完全な息抜きの場であり、総案にとっては昼食代やコーヒー代を負担してくるありがたいお客さんであった。

この同行営業は、総案が現地の詳細な情報を仕入れる大切なときである。かくして湯の街ネヲンは、30数年の時をかけて日本全国各地の情報をしこたま仕込んだ。

小さな旅館の大きな営業マン

伊豆長岡温泉にわずか16室の料理自慢の小さな宿がある。ある日、そこの花山さんという若い営業マンが来社することになった。旅館のイメージと営業マンの名前から、さぞかしかわいらしいお兄ちゃんが来るものと想像していた。が、ビックリな初対面であった。なんと彼は身長190cm超、体重は100kgをゆうに超えた堂々とした若者であった。この巨漢のお兄ちゃんが、湯の街ネヲンにとんでもない土産物を持ってきた。その正体はパソコンである。

またしても、幸運の女神がパソコンという宝物を運んできた。

が、当時のオレはパソコン嫌いを標榜していた。

そのワケは、まだ湯の街ネヲンが30代後半でホテル アタガワに在籍中、大学生だった社長の息子が、オレの会計知識をもとにベーシック言語を駆使し、秋葉原で部品を買い集めて会計機を作くりあげた。全国的にも数例目で、下田財務事務所のお墨付きの本格的なものだった。この時代のこの経験で、オレの頭のなかにはコンピューターとはすごくてすばらしいもの、というイメージが出来上がっていたからだ…。

Windows95が発売されると、猫も杓子もパソコン、パソコンという時代になった。もともと新しい物好きなオレは、営業中にパソコンに向かっている人を見かけると、必ず画面をのぞき込んだ。すると、ほとんどの人がゲームをしていた。

オレが「パソコンなんて」と、パソコン嫌いを標榜は、単純なゲームしかできないのにパソコン、パソコンとほざく奴らへの反発心からであった。

が、花山君が来てほんの少しの時をおいて、湯の街ネヲンの事務所のパソコンが並んだ。彼が体力にものをいわせて強引に設置したのである。そのおかげで今日がある。

さらにパソコンでは、もう一人感謝しなければならない先生がいる。名前はトーマス先生です。またまた、女神が微笑んでくれた。

トーマス先生は、これまでホームページの作成には、ホームページビルダーという高価なソフトが必須だと思っていたオレの脳みそを完全に切り替えてくれました。なんと先生は、市販のソフトを使わず、いわば、紙とエンピツだけでホームページを作成する手法を伝授してくれました。このページがまさにそれです。感謝!