温泉旅館物語

入浴中の美女
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温泉物語・序章

昭和40年代前半、のどかな海辺の伊豆熱川温泉の旅館街には、本ものの旅館の花が咲いていた。まだ「本当のおもてなしの心」が残っていた。すべてのお客さんが、お金持ちであったわけではないが、どのお客さんも上品で卑しくなくて、旅館を見る目に暖かさがあった。

たとえていえば、川端康成の短編小説「伊豆の踊子」の舞台のようであり、お客さんと女中さんたちは、主人公の学生さんと踊子の関係みたいなようであった。

旅館で働く女中さんや番頭さん、板前さんたちのほとんどが二十歳そこそこの若者だった。そして、この若者たちの意識のなかには、お客さんは自分たちとは違う世界の特別な人だという思いがあった。だから、若き従業員たちは純粋な気持ちでイキイキと旅人たちに奉仕した。

熱川海岸からの初日の出
熱川海岸からの初日の出・左には伊豆大島

もしあなたが…

もしあなたが旅人だったら、1970年代に放映されたテレビドラマ「細うで繁盛記」の一場面としてみてください。旅の楽しみが増えるかもしれません。

もしあなたが、旅行業界に新しい流れが誕生した、「じゃらんnet」がサービスを開始した2000年(平成12年)、「楽天トラベル」がサービスを開始した2001年(平成13年)以降に旅館に就職した人たちであれば、たぶんこんな話は「なんのこっちゃ?」だと思いますが、もし興味があったら温泉旅館史といった軽い気持ちで読み進めてください。

そして、
もしあなたが、旅館運営にたずさわる立場の人たちで、将来の光明のヒントを見出そうと努力している方々だとしたら、同じ道を歩んできた者の経験談として参考にしてください。この物語が、みなさんの日常業務の改善の一助にでもなればと願っています。

公序良俗に反する世界

この物語の主人公・湯の街ネヲンことオレは、三流の駅弁大学のうえに四年間も勉強もせずただ無為に過ごしたせいで、卒業時にはどこの会社も採用してくれなかった。やむをえず、やけくそで一兵卒として陸上自衛隊にもぐりこんだ。この決断、あとで振り返ると結構いいものがあった。一つは、肉体的なオーバーホールが出来たこと、一つは、無線通信という最新の技能技術にふれたこと、もう一つは、自動車の運転免許を取得させてくれたことである。

そして、無為に過ごした学生生活について、ず~っとあとになって教えられたことがある。オレは大学生活の四年を無駄にしたと後悔していたが、その人が言った「そんなことはない!」と…、衣食住をはじめ、なんの心配もなく自由に生きられた四年もの経験は、長い人生のなかで生じる数々の摩擦の緩衝材になるんだと…。緊張の連続で生きてきた人にはもろさがあると…。「そうか!」と、なんでも自分に都合よく考えられるお気楽な湯の街ネヲンであった。

1968年(昭和43年)初夏のある日、26才になった湯の街ネヲンは、自衛隊を退職し、チョットした偶然から伊豆熱川の温泉旅館に身を沈めた。身を沈めるとは、今風にいえば就職をしたということだが、こんな差別的な言葉が使われていたのは、バーや飲み屋などの水商売を蔑視していた当時の世相からきていた。温泉旅館もまた同類とみなされていた。

こんな世相を知ってか知らずか、湯の街ネヲンが温泉旅館に職を求めたのは、温暖な地で職住接近の生活を望んでいたからだ。若者はいつの時代でも世間とかけ離れている。

さてさて、
お気楽な湯の街ネヲンが軽い気持ちで、実家へ転職の報告にいったとき、ことのほか厳しい現実があることを知った。

「解っているのか、温泉旅館だぞ!」と、オヤジは落胆の表情でポツリといった。

「世間体が悪いからしばらく家には寄り付かないで」と、オフクロはやや感情的にいった。

両親には温泉旅館という世界が、人間のクズの吹き溜まりであり、ドブ社会であるとインプットされていたみたいだった。一体全体、いつごろから世間の人達は、温泉旅館に対してこんな悪いイメージを持つようになったのだろうか? 温泉旅館に対する世間の評価は芳しくなった。湯の街ネヲン、前職の陸上自衛隊員よりも更にシャバから遠い世界で生きることとになった。伊豆の熱川は良いところなのに…。

伊豆の秘境といわれた、昭和初期の熱川温泉
伊豆の秘境といわれた、昭和初期の熱川温泉

しかし、
すくなくとも、昭和40年代の前半までの熱川温泉の環境は、そんな世評とは真逆であった。むしろ、この頃の温泉旅館は健全で超優良な地場産業であった。地元の中学校を卒業する女の子たちには、行儀見習いをしながら花嫁修業もできたあこがれの職業だった。事実、宿泊したお客さんから、女中さんの○○子ちゃんを、ぜひ我が子の嫁さんにとか、我が家の孫の嫁に、という話がいくつも舞い込んだ。

湯の街ネヲンにとっての新しい職場は、すべてが珍しく、すべてが初々しくて新鮮であった。当時の温泉旅館は、料理はもちろんユカタ、シーツの洗濯ものにいたるまでのすべてが手仕事、手作業で行われた。だから、いつもまわりには大勢の仲間たちがいた。湯の街ネヲンが本物の温泉旅館の歴史や風習を、その肌身で直接感じ取った時期であった。えらい宝物を授かった時代であった。

ちなみに、当時の庶民は三度の食事をとるのが精一杯でした。そんな時代に、宿泊をともなう旅行ができる人たちには、すべてに余裕があった。世間からは人間のクズと見下げられていた我々温泉旅館の女中さんや番頭さんにも優しかった。世評とは関係のない世界であった。

温泉旅館が隆盛を極める

時が流れた。
東海道新幹線開業が1964年(昭和39年)そして、東京オリンピック。東名高速道路開通が1969年(昭和44年)で、翌年には大阪万博が開幕し、高度経済成長期がピークを迎えた。世間の景気循環から遅れてやってくる温泉旅館業界にも全盛の時代がやってきた。企業の求人募集欄には、春季と秋季の慰安旅行あり、の記載が必須であり、農協等は農閑期の団体ツアーの募集に力を入れた。そして、温泉街は社員の慰労旅行客と農協等の団体ツアー客であふれかえった。新しい時代の始まりは古い時代の終りでもある。

世の中は団体旅行ブームで、近所のオバサンたちに「お宅の息子さんは、いいところにお勤めですね」と、いわれるようになって、オフクロはチョット胸を張っていた。

熱川温泉の全盛時代
温泉旅館が全盛の時代の伊豆熱川駅と熱川温泉街

温泉旅館に全盛期がやってくると、温泉旅館は、お客さんを大切にするという旅館業本来の特質を放棄し、団体客をいかに効率よく回転させるか、という本末転倒の課題の探究に全精力をつぎ込んだ。結果、多種多様であり、全国的にはふぞろいが特性のはずの温泉旅館が、全国均一の金太郎飴化した。

いつまで夢をみているの…

多くの日本人は「今日は、昨日より確実に進歩している」という科学的(?)な迷信を信じているから、過去のことには興味を示さない。解りやすくいえば、今の旅館の人達は、現在の旅館のカタチが、最新・最良の形態であると信じきっているということだ。

たとえば、お酒を嗜むためのお食事、すなわち、ご飯と汁もの以外はすべてお客さんの前のテーブルに並べて置くという会席膳風料理の提供方式は古いものとし、今や、暖かいものは暖かく冷たいものは冷たくという美名のもとに、料理の一品出しをする旅館がいい旅館だとされている。

たとえば、とある宴会場で、女中さんたちが口元きりりと必死の形相で、数個の料理が入った脇取盆を抱え、わきめもふらずに配膳をしていた。女中さんからはピリピリ感が伝わってくる。この雰囲気って、お客さんが求めているものと同じだろうか? はたして旅館が提供するこの宴会スタイルが、最新で最善で最高のサービスなのだろうか?

たとえば、こんな宴会場の風景は失格だろうか?
時間に追われ一品出しを必死にやっている女中さんたちの緊張感がただよい、リラックスムードにはほど遠いとある宴会場があった。そんな、お座敷の片隅にパッと花が咲いた。

しゃぶしゃぶを食べる女性

ことの起りは、若い女中さんが、配膳したばかりのお造りの器を下げ始めた。そして、オレのお膳に手がのびた。そのときオレは、なにか大事なものを取り上げられるような気がして、思わず「オイ!」といってしまった。すると、その娘はオレの心を見透かすように「間違えちゃったの、心配しないで、もっといいやつを持ってくるから」といってケラケラと笑った。

お気づきでしょうか。このあたりに温泉旅館の真髄があることを…。そう、宴会は楽しく!

日はまた昇る

日本最古の温泉といわれる有馬温泉が復活したそうだ。こんな話が全国から聞こえてくる。温泉旅館にとって喜ばしいことである。

自然のなか、洗練された料理に特化されたペンションは素晴らしい。

おじちゃん、おばちゃんの真心サービスと素朴な郷土料理の民宿もいい。

利便性も良く洗練されたスタイルのシティーホテルもいい。

機能第一のビジネスホテルも利用価値がある。

だけど、何か足りない。さて、なんだろう…。

温泉旅館には、この穴を埋めるものがあると湯の街ネヲンは考えている。旅行客が本当に旅行気分に浸れるのは、小・中規模の旅館であると…。理由を一口でいうと、かしずかれるサービスと支配欲が満たされ大浴場があるからだ。

熱川温泉風景
夜明け前の伊豆熱川温泉街と日の出

温泉旅館が明るい未来を手にするには順を追って考える必要がある。だからその一助として、たまには過去を振り返ってみよう。

<つづく>

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