ある営業マンの物語

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ある営業マンの物語 : 館内編

天城 博之は、ことわざ「大は小を兼ねる」にならい「大企業で培った仕事の手法は、中小企業でも通用する」との信念から額に汗して頑張ったが、その手法が時代遅れであった。また、仕事に取り組む姿勢はよかったが、温泉旅館のもつ特殊性に理解が及ばなかったので、意気込みだけが空回りして「何故だ!?」という苦悩だけが残った。

温泉旅館の朝食
温泉旅館の朝食には、アジの干物が付きものです。

8. ホテル舘山寺の天城さんが来た

日射しには春の力強さが感じられるが、とてつもなく寒い朝であった。ピンポーンというチャイム音とともに、寒気をまとって天城さんが入ってきた。毎月定例のことである。

ホットコーヒー

いつものように二人の前にコーヒーがならんだ。彼は砂糖とミルクをいれスプーンでかき混ぜ始めたが、その手がいつまでも止まらない。今までに見たこともない雰囲気が漂った。そんな彼の様子を見とがめて、オレは「どうした、ナニかあったの?」と声をかけた。二人は同年輩である。

「いや、別に…」と、答える声にいつもの力強さがなかった。「悩む」とは心の内の「不安」との戦いである。天城さんは己の胸のうちの不安と必死に戦っているようだ。悩みはそうとう深そうだ。が、オレは彼がヤワな人間ではなく、打たれ強いタフな性格であることを知っていたので、さして気にはしなかった。むしろ死ぬほど悩め…、と思った。

9. 期待の大型新人・天城さん

話は変わるが、温泉旅館業界は人材が乏しい。ホテル舘山寺も例外ではない。前職が大手の生命保険会社の所長だった天城さんは、その活躍を大いに期待されて入社した。

温泉旅館の業務は、社長または女将をトップに、フロント、営業、経理などの管理部門、仲居さんや番頭さんなどの接客部門、料理の調理部門の三部門に大別される。通常、社員たちは所属する部門を超えて仕事をすることはない。

天城さんは、大企業の出身者には珍しく入社そうそうホテル舘山寺で特異な働き方をした。たとえば、宴会場への料理運びや、宴会終了後のコップや皿などの食器、お銚子やビール瓶などのかたずけから、残飯の始末までの諸作業を女中さんや番頭さんと一緒になって働いた。事務所を飛び出し温泉旅館特有の体力勝負の宴会場などの現場で頑張った。

また、前職の習い性か、どんな作業時でもネクタイをゆるめず背広を片時も手放さなかった。そんな彼の仕事ぶりに現場の仲間たちは好意的であった。そして、その誠実な仕事ぶりが評価され、まもなく、天城さんは支配人に抜擢された。

余談ではあるが、温泉旅館は役職名の大安売りをする。途中入社して最初に手渡された名刺に、○○部長とかの役職名がつくなんて話はザラである。が、天城さんは、その行動力で現場のトップに立った。

働き者の天城さんの話が出たところで、面白い話題を一つ…。 勤勉な日本人は、イソップ寓話に出てくるの「アリとキリギリス」のアリさんに共感をおぼえる人が多いが、なんと!

「働かないアリに意義がある」の著者・長谷川 英祐氏によると、働きアリの7割はボーっとしており、1割は一生働かないそうだ。我々のアリに対するイメージを100%逆転させる。

でも、働かないアリがいるからこそ組織は存続できるという! にわかには信じがたい話である。

現場の仕事といえば、温泉旅館も時代の流れに合わせ、業務の効率化をめざし無駄をなくそうと努力している。温泉旅館のいいところは非日常である。あまり効率化を追いすぎると、お客さんが求めるやすらぎが減少してしまう…。

この問題の答えはある。宿泊料金をアップする努力をすることである。それが簡単ではないことは当然である。簡単な道を歩んできたから今日があるのだ。オレが旅館に入った頃は月給が2万円であった。だが、新婚さん宿泊料金は1万円(5000x2)であった。

話を元に戻そう。日が経つにつれ天城さんの評判は、女中さんや番頭さんのあいだではうなぎ上りであったが、ホテルの中枢部門での評価は芳しくなくなってきた。なんでだ?

組織がシッカリしている大きな会社では、天城さんのようにトップが現場で汗を流せば美談になった。実は、温泉旅館も大型化時代に突入するまでは同じ状態であった。一日の大半をシャツ一枚ですごし、昨日はどこそこを修理した。今日はあそこを磨き上げた。などと自慢をしていれば、信じられないだろうが名支配人と言われた。

残念ながら旅館が大型化の時代になると、支配人ともなれば、借金の返済計画に参画できる能力がなければ務まらなくなったのである。

10. 悩める天城さん

いつものように二人はセールスに出た。オレ「今日は、いつもの態度じゃねーじゃねーか!」と、嫌味っぽくいったが返事がない。車中に沈黙が続いた。しばらくして、天城さんがやっと口を開いた。「なんだ、聞こえないぞ、もっと大きな声でしゃべれ」と、オレは怒鳴るようにいった。彼を元気付けるように…。

「私はですね…」と前置きをして、己の日常の仕事ぶりを話した。「土曜、日曜などは、朝食会場の準備のため朝6時には出社し、夜は宴会場の後片付けが完全に終わるまで、一日中ぶっ通しで働いています」と…。

オレ「そんな自慢話はいいから早く先を言え」と、ぶっきらぼうに言うと、

彼は、いつも変わらぬ気持ちで仕事に励んでいるのに、近ごろ、女将との間にすきま風を感じるんですといった。

だからといって、女将がとやかく言うわけではない。だが、その態度が私を無視しているように感じると続けた。大企業の厳しい人間関係のなかで生きてきた超サラリーマンの天城さん、上下関係が断ち切られたような、この疎外感に耐えられないという。疎外される理由が思い当たらないので、考え始めると夜も眠れないというのである。これが、彼の悩みであり、不安をつのらせる原因であった。

ヤツの悩みを聞いたオレ、彼の悩みの原因がすぐに解った。

芳しくない評価の答えは、単純でカンタンです。下記の組織図をご覧ください。

旅館の組織図

ある温泉旅館の組織図に、赤字で  天城  と、湯の街ネヲンが追加記入しまた。この組織図の  天城  の位置をみて、これまでの話が理解できたひとは温泉旅館人として合格です。この業界の発展のために引き続き頑張ってください。期待しています。

参考までに、女将さんはどの位置で天城さんに頑張ってもらいたかったのでしょうか?

女将さん

女将の態度が変わった理由は単純明快である。女将さんは、天城さんの器を ”将器にあらず” と見たのである。オレは、女将のその判断は的確であると思った。女将は、天城さんを ”一兵卒” として扱うことに決めたのである。女性がいったん下した決断は恐ろしい。容赦なく一線を引くからである。

この女将の天城さんに対する方針の変更に、彼は敏感に反応したのだ。降りかかる火の粉をすかさず払おうとする優秀なサラリーマンである。天城さんの悩みの元が解った湯の街ネヲンは、彼のために強烈な答えを出してやった。

「なんだ、そんなことで悩んでいたのか、馬鹿じゃないのか?」と切り出し「答えは簡単、平社員に降格してもらえよ!」と、鋭角的な思考回路の湯の街ネヲンは、暴言とも思える言葉を投げつけたが、天城さんはピクリとも反応しない。

オレ、天城さんをチラリと見やりながら、この石頭野郎に問題の解決方法をどのようにわからせようかとあれこれと考えた。考えることに使わない頭は、石の地蔵さんの頭と同じである。

天城さんには、それこそ休むひまなく現場で働いているという自負があるから、女将の彼に対する評価替えなど、まったく理解できなかった。

さて、話は飛ぶが、オレはかねてより天城さんに対し、コイツは温泉旅館とは何ぞやということ理解しているのかという疑問を抱いていた。が、今日その答えが出た。彼は、温泉旅館というものを全く理解していなかったのである。否、解ろうとしないのである。

そして、女将が天城さんに対し露骨な態度をとらなかったのは、彼には幹部社員としての能力はないが、平社員としては超お買い得であったからだ。さすが優秀な女将の判断である。女将さんは言っているであろう「天城さん! あなたがかく汗は、ハンカチで拭える額の汗ではなく、脳みそにかかせる汗ですよ」と。

オレは愛すべき彼が今まで通り自信満々で働けるように努力を続かたが、分かったのか、分からないのか、この石頭野郎の表情に変化は見られなかった。このくそったれ野郎めが!

それならばと、天城さんの仕事好きな性格を刺激しようと、論法に変えて、名刺のない人生は思いのほか寂しいぞ、降格はされても会社は辞めるな、仕事を手放すなとしゃべったがこれも無視された。ああ、つかれた!

11. 頭の中は天城ワールド

生保業界のような大会社には人材が豊富である。そこには東大や早稲田、慶応大卒の優秀な人間たちが作り上げた確固たる組織がある。そして、そのシステムは、あたえられた仕事を無難にこなす従順な社員がいれば完璧に機能するようになっている。

メリーゴーランド

超模範社員の天城さんは、生命保険会社の営業部門で、用意されたシステムにのって完璧に仕事をこなし、それなりの地位に登りつめた。彼の会社勤めは賞賛の連続であっただろ。そんなわけで彼自身のうちに「仕事とは」というものの答えが完全に出来上がっていた。いわば、彼の頭の中には「天城ワールド」という仕事の世界が構築されいた。

さて、天城さんは自分の仕事ぶりに強い自信を持ったことであろう。しかし、自信満々の彼には、己が、組織の一歯車として動かされていたなんて夢にも思っていないだろう。この組織の中の一歯車という自覚の度合いによって、その人たちの第二の人生は大きく異なる。

12. 天は天城さんを見捨てず

天城ワールドが完成している天城さんの頭、すなわち、硬くなった頭は始末に悪い。だが、センスは悪いが仕事に対しては真面目に取り組んだ天城さんを神様は見捨てなかった。

湯の街ネヲンの前ではアドバイスを無視したり猛反発をしたが、ホテルの戻った天城さんは、あっさりと支配人職を返上した。支配人職を返上するなんて、普通の人には異様な行動に見えるだろう。なにしろ「低いようで高いのがプライド」なんていう格言があるくらいだから。

でも天城さんには、そんな見栄っ張り的なプライドはなかった。人間、プライドの置き所は人それぞれである。天城さんは、休まず・遅れず・手を抜かず、肉体の酷使を厭わず額に汗して全力で働くことこそを、自分自身のプライドだとしてた。

だから名刺の肩書きが、支配人から営業と変わっても少しも気にしていなかった。ちなみに、大きな給料の変動もなかったという。温泉旅館って、こんな特殊な世界なのです。

13. 突然のわかれ…

いくつかの季節が過ぎた、ある年の年末、天城さんがお歳暮の三ケ日みかん持ってやって来た。そして、早々にいった。「じつは、今回はお別れの挨拶もかねてお邪魔しました」と。

思いがけないことを聞かされた湯の街ネヲンは、この石頭野郎との付き合いが終わるかと思ったらホッとした。しかし、寂しい気持ちも急激にわきあがった。

青空とマーガレット

天城さんの突然の退職の理由は、これからの残りの人生は私に付き合ってと奥さんに強くいわれたからだそうだ。頑固だが根はやさしい天城さん、奥さんの実家の伊豆に移住して夫婦で花作りに挑戦するそうだ。オレにはその話が俄かには信じられなかったが、天城さん夫婦の人生は、二人が決めることなのでなにもいえなかった。

とりあえず、早春に咲くあの清楚なマーガレット栽培をやるそうだ。天城さん、新しい顔をみせて静かに帰っていった。頑張れ! 応援してま~す。

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