初めての営業

世田谷の家
世田谷の住宅街の風景

湯の街ネヲンの人生初の営業活動がスタートした。出張中の宿泊先は世田谷区経堂にある社長の実家であった。ここには、戦時中の避難先としてホテル アタガワの本館(青雲閣)を買い取ったという社長の母親(以下、おばあちゃん)と、お手伝いの静さんというおばさんの二人が住んでいた。おばあちゃんは80代の半ばで、静さんは60歳ぐらいであった。

実は、この高齢のおばあちゃんは妖怪だった。

ネヲンが、この世田谷の家にはじめて厄介になった日、夕食のお膳を前に、おばあちゃんはネヲンの顔を見つめて「あなたがネヲンさんという方ですか」と、やさしくかたりかけ、そして「そ~ですか、あなたがネヲンさんですか」と、何かを噛み分けるようにゆっくりと頷きながら「お父ちゃん(社長)は、ここへ帰るたびにあなたの話をするんですよ!」と、続けた。

「あなたは、いつも一生懸命働いてくれるそうですね。お父ちゃんは大助かりだといって、それはそれは感謝しているんですよ」と、思いもよらないことをいった。

さらに「これからも宜しくお願いしますね。お父ちゃんは、とても期待していますよ!」と、丁重にいった。ネヲンは返答のしょうがなくて、ただ黙って聞いていたが、初対面で、しかも、80歳を超えたおばあちゃんに、こんなことをいわれて、心の内では、ますます仕事に励もうと思った。と同時に、この婆さんは妖怪か? という不謹慎な思いもよぎった。

電車でのセールス

この頃は、温泉旅館も旅行業者も、ようやく世間の陽の当たる場所に顔をだしはじめた時期であり、いわゆる温泉旅館と旅行業者の持ちつ持たれつという時代の幕あけであった。

しかし、この二つの業界は、それぞれが雨後のタケノコのように勢いよく成長をはじめたが、まだまだ、お互いに相手のことを知りえていなかった。たとえば、旅行業者の手元には、両者を結びつける重要な旅館のパンフレットさえもがいきわたっていなかった。ホテル旅館は、必死になってパンフレットの類を配布し始めた時期であった。

こんな時代だったので、温泉旅館の営業マンの一番の仕事は、一軒でも多くの旅行業者へパンフレットを届けることであった。現在の営業マンよ、こんな単純な仕事が営業の主体であったのかと侮るなかれ! 当時は、数年に一度発行される旅行業者名簿しか手に入らなかったので、やみくもに歩きまわるのみであった。

当時の温泉旅館の営業マンにとって、一番確実な営業方法は、訪ねあてた旅行会社で、近所のライバルの旅行会社の住所を教えてもらうことであった。この大変さはいっぱしの営業マンでなくとも理解できるであろう。

ホームの風景
ホームの風景

湯の街ネヲンは営業に出ることになったが、教えを請わないネヲンに対して先輩の営業マンたちは誰も営業の手ほどきをしてくれなかった。ネヲンは、すべてが我流で大都会の東京を歩きまわることとなった。

ネヲンは経堂の家から毎朝、熱川温泉と大きく書かれた売店の手提げ袋に、パンフと地図とボロボロの住所録を詰め込み、両手に下げて出かけた。経堂の駅に着くころには手先が ”J の字”になっていて、うまく切符が買えなかった。そんなわけで、午前中の営業は地獄であった。

人間は疲れるとどこでも眠れる。

ここは上野駅である。疲れはててホームのベンチに座ると、次々に電車がすべりこみ大勢の乗客が乗り降りする。電車が発車ると、一瞬、ホームはガラガラになるがすぐに乗客でいっぱいになる。こんな繰り返しをぼーっと見ていると妄想が湧き、このうち一車両分でいいから、毎日、お客さんとして来てくれたらオレはどんなに楽になれるのかと思っていると、いつのまにか眠りこんだ。上野駅のベンチで居眠りなんて極上のひと時である。

人間は苦労をすると知恵が湧く。

まず、地図と全国旅行業者名簿をバラバラにして、必要なページだけ持ち歩くようにした。軽くなったし、素早く見られるようになった。

ネヲンは、電車に乗るとまず新宿や渋谷などの巨大ターミナル駅を目指した。駅のまわりには旅行業者が密集していたので、重いパンフの束をすぐに半減できるからである。地下街には、大手旅行会社やツアー会社のパンフレットを並べただけの屋台のような旅行会社がずらっと並んでいた。

さらに、地下街には楽しみもあった。人気のランチが格安で食べられたのである。そして、食後は、株価の放送を聞きに来たお客さんのふりをして証券会社のフカフカの椅子に座ってひと眠りした。今みたいにマックやスタバなどで安いコーヒーが飲めたら最高であったろう…。

午後になってパンフが半減すると、電車も空いてくるしネヲンの気分も軽くなった。

昼からの楽しみは読書である。ネヲン、この楽しい時間を確保するために、午後の営業戦略を変えた。歩く時間を減らすために一駅につき一改札口の周辺だけの営業にした。移動手段を電車主体に切り替えた。電車に乗るとすぐに尻のポケットにねじ込んでおいた文庫本をとりだしページをめくった。若いというのは素晴らしい。すぐに頭が切り替わり一瞬にしてストーリーが浮かびあがり、小さな活字もなんのそのであった。

この時 ハマっていたのが、司馬 遼太郎の坂の上の雲であった。難敵・ロシア攻略の日本軍を我が営業に見立てていた。ちなみにファンは、騎兵を育成しロバのように貧弱な日本馬で、世界最強のコサック騎兵と戦った秋山好古だ!

我流営業のブーメラン

営業に出るようになって半年が過ぎた。ある残暑厳しい昼下がり、ネヲンは、半袖のワイシャツに水色のネクタイ姿で個人経営の旅行業者さんの店頭に立った。

「熱川温泉のホテル アタガワです」の挨拶と同時に、店主の「背広はどうした!」と、きつい大きな声が突き刺さってきた。そのあと、初対面のこの旅行業者から延々とお説教が続いた。店を後にしたネヲンは、ありがたい教育のお礼にと、コイツを旅行業者名簿から抹殺した。客もくれないのに文句をいうなと言いながら…。

この時代は、旅行業界の人達と旅館の者たちが、それぞれ、無意識のうちに主導権争いをしていたのだろうか? それとも、ネヲンの立ち居振る舞いがよっぽど酷かったのだろうか?

このような旅行業者の罵詈雑言は、ここだけの話しではない。あちらこちらで、ネクタイがダサい、靴が汚い、床屋へ行けなどなど…。また、挨拶の仕方が云々、店の出入りがなってないなどなどと、お叱りをタップリといただいた。

こんな時は、身近の先輩たちのカッコいいスーツ姿が目に浮かんだが、ネヲンはすぐにオレはオレだと打ち消した。

また、パンフレットに旅館の電話番号が記載されているのが気に入らないと、即、パンフレットをゴミ箱に打ち捨てた旅行業者もいた。

余談だが「形から入る」というのがある。特に、営業は慣れるまでは「形から入る」のがいい。

ネヲンはそれでもめげなかった。このような仕打ちの原因の半分は自分にあると自覚していたし、朝から晩まで怒られていたわけではない。苦言は日に5~6軒であったからだ。それに、暖簾に腕押しよりは、怒られた方が闘争心が沸いた。

怒りの主(旅行業者)は、ほとんどが駅から少し離れたところの旅行業者のおじさんたちだった。もしかしたら、このおじさんたちは、お客さんにそうとういじめられていたのかな?

東急大井町線の電車
東急大井町線の電車

新しい発見があった。そこは、品川区大井町の商店街にあった旅行業者で店主は女性であった。ネヲンと同時に、スーツの上着を抱え汗をふきふき若者が入ってきた。汗でワイシャツが背中にべったりと張り付いていた。

ネヲンには、二人の会話から親子だと察しられた。二人の短い会話のあと、オレを見るおばさん(店主)の目に、今までのおじさんたちとは違うものを感じた。汗だくで帰ってきた若き息子と、うだつの上がらなそうなネヲンがダブったのであろう。この後、ここのお店からネヲンは、初めての団体客をもらった。

二流旅館のエレジー

秋の日差しが柔らかいある日、ある旅行業者の店舗のガラス越しに、熱川温泉の有名旅館の営業マンと旅行業者がにこやかに話をしているのが見えた。

あっ、ここの業者さんは熱川温泉に好意的なんだと、ネヲンは勝手に思いこみ、先客が帰るのを待って店に入った。「熱川温泉のホテル アタガワです」とパンフを差し出しながら元気よく挨拶をすると、「うちは、熱川館と大和館しか送客しないので、パンフはいらないから持って帰れ」と、一蹴された。二流旅館の哀しい現実であった。

そして、晩秋のもの悲しい木枯らしが吹きぬける夕暮れ時、本日最後の営業と決めて小規模の旅行会社に入店した。奥で男性二人が何やら話しをしていた。いつものように「熱川温泉のホテル アタガワです」と挨拶をすると、「ああ、そこへ資料を置いといて」と、その場から返事が帰ってきた。

ここで、あろうことかネヲンは逆ギレをした。

「わざわざ熱川温泉から出てきているのに、話も聞かずにそこに置いておけとはなにごとだ」と、ネヲンは大声でわめいた。すると、年配で頭髪の薄い体格のいい人が「まあ、まあ、」といいながらあわててとんできた。頑張っているネヲンのことを神様が見ていたのか、この人のいい社長のおかげでネヲンは事なきを得た。

▶ 第三話に続く

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