初めての営業

JTBという大組織に、いわば組織内アウトサイダーとみられる人たちの狙い撃ち、という奇襲戦法で食らいついたネヲン、こんどは、正統派の社員たちの仕事の流れに寄生しようと目論んだ。この発想の原点は「坂の上の雲」である。あらゆる困難な場面で、全力で取り組み乗り切った明治の人たちの物語が大いに役立った。

そんな魂胆を秘めてネヲンは、いつものようにJTBの支店に入り店内をキョロキョロとみまわした。そこで目についたのがパンフレットスタンドだった。

それは、どこの支店にもならべ置かれていたが、とくにおおきな支店ではスタンドのジャングルのようであった。そこには「ペラ」と呼ばれるA4サイズの一枚物のチラシが、ぎっしりと差し込まれていた。

パンフレットスタンド
パンフレットスタンド

湯の街ネヲン、ここにヒントがありそうだとひらめいた。

パンフレットスタンドから適当なペラを抜き出して、製作者は誰だ? 発行者は誰だ? 管理者はだれ? と、いろいろと考えながらながめまわした。

すると、裏面の下のほうに小さな字で「JTB東京営業本部」と書かれた一行が目にとまった。さっそく、顔見知りの社員に「これって、このカタログを管理しているところ?」と尋ねると、答えはネヲンの予想通り「そうですよ」であった。彼は親切に所在地をメモしてくれた。

東京営業本部ー1

東京営業本部は台東区の上野にあった。街は、上野公園の桜が満開となり、パンダ人気もともなって大賑わいであった。「犬も歩けば棒に当たる」というのには、幸運説と災難説があるそうだが、ネヲンには、幸運の棒が当たった。

上野のイメージ・パンダ
パンダ

東京営業本部では、梨本課長との出会があった。この梨本課長は、社内では梨本三兄弟として有名人であった。梨本課長はその三男で、二人の兄は、北関東管内でそれぞれが支店長として活躍していた。そして、本人も間もなく支店長として転出していった。

梨本課長は気さくな人柄で、ネヲンの思ったことをストレートに口にする性格が気に入ったのか「ネヲンちゃん、ネヲンちゃん」といって可愛がってくれた。

ある日、梨本課長は、酒10本付または5本付という「十兵衛さん五右衛門さん」という企画商品を作成していた。

ネヲンの顔を見て「オマエのところも参加しろよ」と誘ってきた。が、「これじゃあ~、儲からないからイヤだ! 酒1本付ならいいよ」とネヲンが答えると、「バカヤロー、この企画でそんなこと出来る訳ねだろう~」といったあと、「それもそうだよな~」のひと言で話が終わった。こんな梨本課長とのお付き合いはとても気が楽であった。

ここ上野には、もう一つの楽しみがあった。「坂の上の雲」のもう一人の主人公・正岡子規が暮らした子規庵のある根津、谷中界隈が近かったので、時間に余裕があるときはブラブラと散策した。

東京営業本部ー2

ある日、ネヲンは梨本課長に尋ねた。「うちの旅館で作った独自の企画商品(チラシ)を、支店のパンフレットスタンドに置いてもらえますか?」と。

「あゝ、いいぞ!」と、梨本課長は簡単に引き受けると、さらに「なんなら、俺のところへまとめて送れば、各支店に小分けして配送させるぞ」との思わぬ返事をくれた。

大会社の社員たちは恵まれた環境にいるせいか、懐に入った者にはおおらかであった。「JTB(大企業)は、ウチみたいな旅館(零細企業)なんて、相手にしない」と考えるのは誤りである。だが、これは窮鳥懐に入ればという話ですから、まずは、しっかりとコミニュケーションを取る努力をしましょう。

華のある人
華のある人

人間関係の構築なんて、口でいうのは簡単だが現実的にはとても大変なことだ。しかし、世の中にはこんな大変なことをたった一晩、酒の席を同じくするだけで構築してしまう天才もいる。

なんと、ネヲンの上司・ホテル アタガワの支配人である。支配人のそんな威力を目のあたりにしていたネヲンは幸運であった。自分はアリのように這いずり回って結果を出すしか方法がないと悟れたからである。良い指導者、良いライバルに恵まれたネヲンである。

チラシ、磯料理(優)コースと共に

ホテル アタガワの独自の企画商品(以下、チラシ)磯料理(優)コース が完成した。

磯料理マル優コースのチラシ
磯料理マル優コースのチラシ

湯の街ネヲンは、チラシを各支店へ直接配り歩く計画であっが、まずは、梨本課長の好意に甘えて、JTB東京営業本部から各支店への配送をお願いした。このシステムにのれば、JTBの真面目な社員達は、自社商品だと錯覚してくれると思ったからである。

これは、見事に的中した。ネヲンがチラシを持って支店に出向いたころには、ほとんどの社員達がその存在を知ったいた。さらに、驚いたのは「磯料理(優)コース」の取り扱い説明及び手配方法が、各支店のコンピューターに入力されていたのである。さすが梨本課長! 大会社は、凄いと思った。

さて、大企業の上意下達の凄さに驚いたネヲンであるが、これは、あくまでも周知徹底ということで、売り上げが保証されるということではない。

そこでネヲンは、売り上げアップを目指して行動を起こした。

ネヲンが、カウンターでチラシの束を見せながら、「支店のスタンプとスタンプ台を貸して」と頼むと、どの社員もけげんそうな顔をする。社員たちはパンフレットやチラシにスタンプを押すのは、自分たちの仕事だと思い込んでいるからだ。

再度、スタンプを押すしぐさをしながら頼むと「いいですよ、私がやっておきますよ」と、いいながらも取り出す。すかさずネヲンは、笑顔で「いいよ、いいよ、みなさんに手間をかけさせては申し訳けありませんから」と、いいながら、手際よくポンポンと、「お申し込みは」の空欄に、支店名などが入ったスタンプを捺す。

ネヲンの魂胆は、JTBのカウンターでチラシにスタンプを捺す旅館の営業マンなんて前代未聞である。誰でも、そんなもの珍しいものには興味がわく。もの見高い社員たちに、磯料理(優)コースを、再度、認知させるためであった。

余談だが、このとき初めてスタンプ台が不要なシャチハタを知った。便利なものが出来たな~と思った。

この話には続きがある。ネヲン、最後まで人の良さそうな営業マンのフリをして、スタンプを捺し終わったチラシの束を両手にもって、パンフレットスタンドを目で指しながら、「隅っこの方に入れときますから」と、動き出す。「そこまでしなくても」の、声を聞きながしながら…。

クライマックスである。誰がパンフレットスタンドの片隅になんかに置くものか、とネヲン。一番目立ちそうなところへ、そ~っと差し込む。ある時は、他のチラシを押しのけて…。

営業マンには、タイムリーヒットは打てても、試合を決める決定打は打てない。なぜなら、会社には9回の裏がなくず~っと続くからだ! さて、さて、また歩き始めよう! 犬も歩けば棒にあたる。

< 完 >

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