初めての営業

湯の街ネヲンは陸上自衛隊の除隊を決めると、あみだくじの階段をのぼるようにして伊豆熱川温泉の温泉旅館・ホテル アタガワに就職した。仕事は、お客様から宿泊料をいただくお会計係(経理)である。この物語は、それから3年半が過ぎたある春の夜の旦那さん(社長)との会話からはじまります。そして、ここから湯の街ネヲンの仕事人生の幸運がはじまります。

昭和47年頃の熱川温泉街
海岸沿いにホテル旅館が立ち並ぶ 昭和47年頃の熱川温泉街

温泉旅館の旦那さん

当時の温泉旅館は、女将さんの指示のもと古参の番頭さん(支配人)や女中頭を中心にまわっており、ご主人はといえば名ばかりの社長で、旦那さんとかお父さんとか呼ばれ、家業の仕事はほったらかしで、毎日ブラブラと競輪・競馬にパチンコ・麻雀、芸者遊びにと好き勝手をしていた。温泉旅館は儲かっていたからである。湯の街ネヲン、もし就職先の旦那さんが遊び人であったら、今頃は場末のドブのよどみに沈んでいただろう。

こんな時代、ホテル アタガワの旦那さんは例外中の例外であった。この40歳半ばの旦那さんは、現場での細かな仕事一つ一つには手や口を出さなかったが、旅館経営には全力をそそいでいた。とくに社員教育には熱心で人を動かす天才であった。社員教育といっても、業務マニュアルを作ったり、社員を一堂に集めて小難しい講義などをするのではない。いつもマンツーマンであった。話し好きのおじさんという感じで、時や場所を選ばず社員をつかまえては、館内での出来事や時々の世間話をうまく取り入れて、相手のレベルに合わせて解りやすく話しをして聞かせた。

この旦那さんは、まわりの人達よりも背がヒョロリと高く、手と足がとても長かった。おまけに顔までが長い。そして、社員達と話をするときは、身体を折り曲げ相手の目線に合わせて顔を近づける。話が核心に及ぶとさらに顔を近づけた。だから、気が付くと少し飛び出し気味のギョロ目と、長くのびた眉毛の長いが顔がすぐ目の前にあった。

旦那さんの思いもよらない話!

ある春の夜、湯の街ネヲンは旦那さんに呼びだされた。その場所は温泉街の中心にある社長宅の2階にある書斎で、個人的な事務室も兼ねていた。向かいの遊技場のネオンの瞬きが窓のくもりガラスに映ったり、酔客の下駄の音や嬌声などが響いてきた。

糖尿病があった社長には夕食後の酒の量に制限があり、焼酎がキッチリ二杯と決まっていた。特に太っているわけでもないのに、とても汗かきで焼酎を飲んでいるときは、冬でも一すじ二すじの汗を流していた。

焼酎
焼酎はキッチリ二杯

さて、この夜の旦那さん(以下、社長)の話は、湯の街ネヲン(以下、ネヲン)とって思いもよらないものであった。

社長は、目元を少し赤くして、長い人差し指で小刻みに足元を指しながら「ところでネヲンさんは、ここに来てどのくらい?」と訊いた。

この社長は、どの社員にも必ず「さん」づけで呼ぶ。そして、下の社員になるほど優しい笑顔と声音で話しかける。また、すべてを承知していながら「どのくら経ったの?」などと話しはじめる。見かけとは違って、本当は何でも知っている恐ろしい社長であった。

「3年半です」と、ネヲンはぶっきらぼうに答える。

「そうか、もう3年も経ったのか!」と、感慨深げにいい「毎日毎日、同じ仕事ばかりでは飽きるだろう」と続けた。

ネヲンは、経理だもの毎日の仕事が繰り返しは当たり前だろうと、胸中で思いながら、つぎの言葉を待った。

すると社長は、「たまには、息抜きに外に出てみるか?」と、ネヲンにはちょっと理解しがたいことを言った。

「どう云うことですか?」と、ネヲンは意味がわからずに聞き返した。

社長が解説をした。「営業ということで外に出すから、都会の空気を吸って気分転換をして来いと云うことだ」と。

「営業ですか!?」と、ネヲンは意外な展開に驚きの声を発した。ネヲンの脳裏には、仕事としての「営業」という思考がまったくなかった。陸上競技陸上競技者が、いきなりプールに飛び込めといわれたようなものである。

ネヲンの胸中を見抜いている社長は、「バカ! お前に客を取ってこいなんて、これっぽっちも思っちゃいない」と、指先をまるめ弾くようなしぐさをしながらいった。さらに、「第一、お前はぶっきらぼうのうえに、顔からして営業向きでない」と続けた。この言葉にネヲン、妙に納得した。

このあと、社長は信じられないことをいった。

社長は、長い指を親指からゆっくりと折おりながら、月、火、水、木、金といい、そして、今度はその折り曲げた指をパッとひろげて、ネヲンの顔の前で手のひらを左右に振りながらいった。

「ネヲンさんや」と、おだやかにいって、ひと呼吸おいて続けた。「気分転換のために営業という名目で出張させるのだから、5日のうち3日間は映画を見るなり好きにしていい。ただ、ほかの社員の手前があるから、2日間は営業のまねごとをして、それらしい報告をしてね」といい、そして、この社長はネヲンの反応をみながら「まねごとでいいんだぞ! 気楽に行ってこい」と、念を押した。

てなワケで、営業に出るようになった!

はた目には、なんていい社長なんだと見えるかも知れないが、実は、そんなお人よしの社長ではない。向上心の強いネヲンの性格を見抜き、5日のうち3日は遊んでいいよという「エサ」をぶら下げて、もう一つの仕事(営業)をネヲンに与えたのである。

事実、日々のお会計業務は代役にバトンタッチしたが、経理本来の仕事はしっかりとネヲンの手元に残った。この日からネヲンは経理兼営業となった。

▶ 第二話に続く

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